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「産業の発展によって環境が保全される そんな仕組みを実現できるか?」
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「産業の発展によって環境が保全される そんな仕組みを実現できるか?」
〜諦めなければならないもの〜


1.はじめに

 どんな産業であれ、人、物、お金の流れをたどってゆくと、やがては天然資源に立脚する第一次産業に行き着きます。再生産の困難な地下資源を利用する鉱業。そして、天然資源の再生産能力を利用できる農林漁業。この両者のうち、特に農林漁業には、自然環境を保全してきた歴史があります。ある時は直接的に、またある時は他の産業を抑える形で間接的に。そうやって保全されてきた自然環境が、農林漁業そのものを維持してきたわけです。しかし、現在、大規模化、集約化された農林漁業は収奪的な側面を強めてきています。他方、そういった変貌を遂げられなかったところでは、他の産業によって追いやられ、衰退しつつあります。

 環境保全に費やされた費用は、それによって生まれた天然資源を利用できなければ、例えそれがどれだけ優れたことであると力説してみたところで借金にしかなりません。どんなに高い値札を付けたとしても、売れない商品は不良在庫でしかないのです。借金は、返済することができなければ(貸した側、すなわち国民の側で)損失として計上するほかはありません。わたしから、わたしの子ども達へと、未来永劫に引き継がれる負債になってしまうのです。

 わたし達の暮らしは様々な産業によって支えられています。その様々な産業が、保全された自然環境を利用できない。あるいは、保全することに意味があると叫んで効果の有無を問わない。そんな環境保全施策を何時までも続けて行けばどうなるのでしょうか。利用できる天然資源は枯渇し、それを利用してきた産業は衰退してゆくでしょう。それでも、環境保全に費やしづつける負担は、わたし達の暮らしに重くのしかかってゆきます。産業の衰退と負債の累積。やがて、わたしたちの暮らしは、破綻を迎えることでしょう。

 わたし達の未来の為には、産業の発展と自然環境の保全を強く結びつける必要があるのです。しかしもそれは、産業が発展するほど自然環境が保全され、さらにそのことがさらに産業を発展させる、そんな正方向の循環として。


2.里山に幻想を抱いてはいけない

 自然環境の持続的な利用としてよくあげられるものに、里山があります。しかし里山は、小規模な社会を支えることしかできません。我が国は江戸末期に、すでに里山経済圏の破綻を経験しています。六甲山を筆頭に、都市近郊の山々は、明治のはじめには禿山だったのです。そして現在、里山を維持するためには、他で得られた富を投入しなければならない状態になっています。
 一昔前には、高度なテクノロジーと牧歌的な生活の結びついた未来像が描かれたこともありました。里山のような環境の中で、誰もが豊な暮らしを続けて行くことができる。そしてその生活を支えるものが、高度に発達したテクノロジーだと言うのです。しかし、その高度なテクノロジーは、巨大な市場経済の存在によってこそ発展し、提供されるものです。中でもエレクトロニクス製品は、原材料が世界的な規模で流通しているからこそ、わたし達の暮らしに存在しています。巨大な市場経済あってのものなのです。
 牧歌的な生活は、子どもや高齢者、障害者、病人にとっては辛い生活です。わたし達の未来として、里山的な社会を選択することは、そんな弱者を切り捨てることになるです。


3.観光産業は社会全体の豊さあってこそ

 自然環境の保全によって観光客を集め、地域振興につなげようとする試みは各地で行われています。たくさんの人が訪れてくれれば、その地域の人たちに収入をもたらしますし、余裕があればさらなる環境保全も可能でしょう。しかし、そうやって訪れてくれる人が大勢過ぎると、かえって売り物である自然環境に悪い影響を与えてしまいます。地域社会が発展しすぎても、そうなるでしょう。ほどほどの地域社会に、ほどほどの観光客。これは難しいバランスです。しかも、似たような観光地が幾つもあったなら、どれだけ懸命に宣伝しようと観光客の訪れない地域も出てくることでしょう。
 他方、観光地を訪れる側のことを考えてみると、そんな人たちには観光できるほど暮らしに余裕があるわけです。移動手段である交通インフラの整備も必要ですし、これらのことは社会全体が豊でないと実現できません。観光産業は、他の地域から豊かさをおすそ分けしてもらう産業なのです。


4.鍵を握る農林漁業の維持と振興

 結局、自然環境を保全して行くためには、農林漁業の維持と振興が重要になってきます。最初に書いたように、農林漁業には自然環境を保全してきた歴史があります。そしてそんな農林漁業は、あらゆる産業の源流に位置しています。ですから、農林漁業の未来がそのまま、わたし達の暮らしの未来につながっているのです。
 しかし現在、農林漁業は収奪的な側面を強めてきています。ですから、単純に農林漁業を維持、振興すると、かえって自然環境の破壊につながってしまうことにもなりかねません。また、山地、河川、湖沼、沿岸海域、そして外洋、それらはは互いに無関係ではなく、連携して保全されてこそ豊な天然資源をもたらします。林業の場、農業の場、そして漁業の場。農林漁業の維持と振興は、一体として行われなければならないのです。


5.二つのパターン

 農林漁業には、大きく分けて二つのパターンがあります。一つは、その地域で消費される量を大幅に超える生産物を生む農林漁業。もう一つは、その地域の消費量程度かそれ以下の生産物を生む農林漁業です。前者の場合は、他の地域への販売を主力に考えるため、大規模化、集約化が進みます。それによって輸送コストの負担や、競争力を身につける必要があるからです。そしてもう一方の後者の場合は、地産地消が主目的となります。大都市圏の近郊農業が後者にあたるでしょうし、我が国に多い中山間地での農林漁業もこれに入るでしょう。農林漁業を維持、振興するためには、このような二つのパターンに地域をわけ、さらにその地域内それぞれで、実状にあったきめ細かな施策を行ってゆくことになります。


6.国際競争力を適正な方向へと是正する

 農林漁業の生産物を全て自国で消費するにしても、国際競争力は必要です。なぜなら、他国から輸入されてくる生産物に、対抗する必要があるからです。対抗できなければ、自国の生産物は売れなくなります。そうなると、我が国の農林水産業は衰退してゆくしかありません。
 では、その国際競争力の源泉とは何でしょうか。安い人件費、様々な規制が緩いこと、大規模化、集約化。このうち、大規模化と集約化を除く他の二つの要素は、その国への投資や産業振興への働きかけ、外交努力などによって適正な状態へと是正してゆける可能性があります。安い人件費や緩い規制は、その国が豊になれば失われてゆく要素だからです。他方の大規模化、集約化は、地理的な条件によっても左右されることから、簡単に埋めることはできません。真似のできないことに労力を傾注するよりも、できることにこそやり方を考え、集中してゆく。それが、自国の農林漁業に国際競争力をもたらすのです。
 そして、国際競争力が適正な方向へと是正されてゆけば、農林漁業への過度な淘汰圧力は弱まるでしょう。収奪的な手法を見直す余裕も生まれてきます。農林水産業の維持と振興を、環境保全に結びつける余地が生まれてくるわけです。


7.諦めなければならないもの

 前述したような方策とは別に、我が国の農林漁業に競争力をつける方法はあります。それは生産性の向上です。我が国では地理的な条件もあって、大規模化、集約化には限界があります。ですから我が国の農林漁業は、高密度栽培や、高収量をもたらす品種改良、機械化や、そのために必要な農林漁場の整備、そして種苗生産や養殖に力を入れてきました。これらのやり方は有効ではありましたが、高い費用が必要な上に、安い輸入生産物との競争の為に単価を上げれないことから、かえって足枷になるようになってきました。本来なら自然界の再生産能力を期待できたところに、人為の介在する部分を増やしてしまったからです。
 農林漁業の生産性を上げるためには、自然界の再生産能力を向上させてそれを利用することと、要する手間暇の削減を両立させなければなりません。前者は環境保全に結びつきますが、後者の場合はマイナスになることがあります。しかし、後者のマイナスは必要なマイナスとして諦めるしかありません。大切なのは両者のバランスであって、プラス・マイナスの結果がプラスになるようにする。それこそが、今、わたし達の選択してゆかなければならない道なのです。


8.おわりに

 わたしが小学校にあがった前後の頃、実家の周辺にはたくさんの田圃や水路、溜め池がありました。水路にはドジョウが棲み。稲刈り後の田圃にはオケラが、春には蓮華が咲きました。裏山には木々が茂り、たくさんの昆虫の棲みかでした。夜になると街灯の明かりに虫が群れ、網戸と蚊取り線香は必需品でした。昼時のテーブル上には、虫除けの小さな蚊帳のようなカバー。実家の前の道は未舗装で、ちょっとした雨でドロドロになり、溝も溢れました。下水道は無く、ドブにはイトミミズや小さな巻貝がいました。庭石をひっくり返すとハサミムシやミミズや、ダンゴ虫が。農薬は今よりもずっと強かったらしく、農薬のまかれた田圃には赤い小旗が立ちました。家庭用洗剤も、今とは違います。にも関わらず、わたし達の暮らしの周りには生き物が溢れていました。
 そんな環境も、その頃からほぼ四半世紀ほどで消えました。田圃や水路は消え、川は三面コンクリートに。10ほどの溜め池が埋めたてられ、マンションや公園に。そして裏山もマンションに。下水道が整備されドブは干上がりました。蚊取り器を使うことは、年に数日しかありません。

 何もかもを取り戻すことは諦めるしかない時代に、わたし達は生きています。自然界は複雑です。ちょっとしたバランスの崩れが、わたし達の暮らしに大きな影響を及ぼすこともあります。ですから、片っ端から保全すべきとする人がいます。その生き物がいなくなったら、どんな損失があるか計り知れないからと。しかし、激変してきた環境の中で、認めたくないことではありますが、いなくなってもたいした影響がない、そんな生き物も確かにいたのです。だからこそ、今、わたし達はこの時代に生きていられるのです。

 今必要なのは線引きです。守るべきものと、諦めざるを得ないものとの。贅沢な我がままは、やがては、わたし達の暮らしを破綻させることでしょう。魔法はありません。わたし達自身の自覚に期待します。





2009年06月15日 辻井 豊
2009年06月18日 第1節に右を加筆 (貸した側、すなわち国民の側で) 辻井 豊


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