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「釣りから市民権が失われる時」
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「釣りから市民権が失われる時」
〜マニアと無法者だけが釣り人となった時に釣り場は消えてゆく〜




 残暑も一段落した今日(2008年9月27日)、茨木市の安威川へ釣りに行ってきました。そこはJRの鉄橋と阪急の鉄橋に挟まれた区間で、よく行く釣り場の一つです。この安威川にはJRの鉄橋を越えたあたりで、箕面から流れてくる勝尾寺川が合流しています。このあたりは足場もよく、魚もたくさんいて、手軽に釣りを楽しめるところです。堤防や河川敷は定期的に手入れがされていて、散歩やジョギングを楽しむ人もたくさんいます。オイカワ狙いのわたしが釣りをする場所には、釣り人の姿はほとんどありませんが、たまにコイ狙いの釣り人や、バス狙いの釣り人もやってきます。流れが緩やかで水深のある勝尾寺川の合流点から少し勝尾寺川に入ったところや、本流から分かれた流れが溜りのようになっている阪急の鉄橋付近には、ヘラブナを狙う釣り人がたくさんやってきます。

 今日は安威川で釣りをしていて初めてブルーギルを釣りました。このあたりは下流よりもずっと水がいいからでしょうか、ブルーギルの体色はオレンジがかった薄茶色で、このサイズ(15cmほど)としてはとても綺麗でした。

茨木市の安威川(JR鉄橋〜阪急鉄橋)の様子
堤防にある案内看板
案内看板のある地点から上流側を望む 案内看板のある地点の正面方向 案内看板のある地点から下流側を望む
安威川で釣りをしていて初めて釣ったブルーギル いつも狙っているオイカワ、今日も釣れました
(画像をクリックするとその画像が拡大されます。拡大画像表示後、この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使ってください)

 この釣り場のように、住宅街の中にあり、足場もいいところは、一頃の釣りブームの時代なら、釣り竿の列ができていたことでしょう。学校帰りの子ども達が自転車に竿を括りつけてやってくる、そんな風景が見られたかもしれません。そう言えば子供の頃、川だけでなく海へも、淀川河口へ、甲子園浜へ、須磨海岸へ、友達と誘い合って釣りに行ったものでした。期待に胸弾ませて到着した釣り場には、どこも竿がひしめき合い、隙間を探すのに苦労したものです。今から、もう30年以上前のことです。バス釣りブームが来る前、1970年代前半の釣りブームの頃でした。




1.釣り場が無くなる?

 ちょうど昨日、大阪市の管理する港湾施設を立ち入り禁止する条例のパブリックコメントの募集が終わりました。テレビのニュースや情報番組でも取り上げられたようで、立ち入り禁止区域のフェンスをよじ登る釣り人の姿や、釣り場に放置されたゴミなどが夕刻の関西の茶の間に流れたようです。

 大阪港には、もうずっと以前から素人が竿を出せるような場所はほとんど無くなっていました。南港の釣り公園があるじゃないかと、そう仰る人もいるでしょうが、わたしにはわかりません。わたしが素人も竿を出せる場所だと思うのは、子ども達が誘い合わせて釣りに出かけるような場所のことです。海釣り公園でも、海上釣り堀でも、ましてや渡船で渡る沖の波止でもないのです。誰かが釣り好きの家族連れが訪れる場所、チヌやタチウオ狙いの釣り人が訪れる場所、そんな釣り場を、素人でも気軽に竿を出せる場所と呼ぶには違和感があるのです。そして、今回失われようとしている釣り場は、まさにそんな釣り場なわけです。


2.よくも悪くも市民の釣りだったバス釣り

 1970年代前半の釣りブームの後に、あのバス釣りブームがやってきました。バス釣りブームは、それ以前の釣りブームとは少し異質なものでしたが、それでも、以前の釣りブームと同じだなと感じる光景が、そこにはありました。それは、自転車に竿を括りつけて釣り場へ通う子ども達の姿です。

 あちこちに放流した馬鹿者のおかげで、ブラックバスはどこにでもいるようになりました。姿を消しつつあった大都市圏の溜め池にも。汚れた都市河川にも。近場で、足場のいいそんな場所は、子ども達にとって絶好の釣り場になりました。誰でも、どこでもできる釣り。そんな釣りにこそ、市民権が与えら得れて行くのだと、今のわたしは思います。だからこそ、NHKでさえバス釣り釣り講座をテレビで放送したのです。そして、爆発的に拡大した釣り人の傍若無人な行動が、各地で問題となるようになりました。それでも、一時期、バス釣りは確実に市民の釣りでした。あの、NHKがバス釣り釣り講座を放送していた時期に、バス釣りを規制しよう、水辺からバスを狙う釣り人を排除しようとしたならば、とても不可能なことだったでしょう。


3.法に基く正当性ではなく、共感してくれる人の数の力

 法律によって明確に定義された権利としてではなく、遊びや物事に人格を与えて、まるでそれが持っているかのようにして使われる市民権とは、明確な権利ではなく、利用者の数による力がもたらした状況であると、わたしは思います。

 わたしが、わたしの家族が、わたしの友人が、そこで釣りを楽しんでいる。だから禁止して欲しくない。そう考える人が増えれば増えるほど、水辺から釣り人を締め出すことは難しくなります。そんな状況が明らかに予想できる場合は、行政も二の足を踏むでしょう。そうさせるのは、法に基く正当性ではなく、共感してくれる人の数の力です。そんな状況にあってこそ、釣りに市民権が与えられたと言えるのです。


4.無法者はいなくならない、事故は無くならない、でも?

 小中高大、そして就職、自分で選択しつつも社会からも選択される。そんな過程を省みれば、人は様々で、一様に統一することなどできないのだと思い知ります。聖人のような人もいれば、悪さをする人も必ずいます。また、事故を完全にゼロにすることもできません。だからこそ、フェ−ルセーフ(間違っても安全)とう考えがあり、巨大なシステムには実際にそれが組み込まれています。それでも事故は起こります。

 釣り人には無法者がいます。事故も起こします。しかし、わたしが、わたしの家族が、わたしの友人が、そこで釣りを楽しんでいる。だから禁止して欲しくない。そう考える人が多ければ、人も、行政も、釣りと釣り人の起こす問題とを分けて考えざるを得なくなります。そういう状況をこそ、釣りに市民権があると言うのです。そんな状況にあってこそ、釣り人の訴えも聞き入れられるのです。くり返しますが、そうさせるのは、法に基く正当性ではなく、共感してくれる人の数の力です。


5.マニアと無法者だけが釣り人となった時に釣り場は消えてゆく

 釣りが、マニアだけのものとなった時、釣りから市民権は失われます。マニアだけのものとなっても、あいかわらず無法者はいるし、事故も起こります。そしてそんな時、人も、行政も、釣りと釣り人の起こす問題とを分けて考なくなります。テレビで流される無法者の姿に、あんな連中は締め出されて当然だと、誰もが思うようになります。そうやって釣り場は消えてゆくのです。


6.釣りから市民権を失わせないためには

 誰でも手軽に楽しめる釣り。それは、海釣り公園での釣りでしょうか?海上釣り堀でしょうか?渡船で渡る波止での釣りでしょうか?船から狙うシーバス?チヌ?

 今、通勤で渡る淀川の汽水域に釣り人の姿はなく、魚が跳ねる姿を狙っているのは鳥だけです。住宅街を流れる都市河川に子どもの姿はなく、あるのは高齢化した、ヘラブナを狙う釣り人の姿です。釣り場はあります。大都市のすぐ側にも。街中にも。しかし、そこに釣り人はいるでしょうか?釣り界は、手軽に楽しめる釣りを提案できているのでしょうか?

 釣り界が誰でも手軽に楽しめる釣りを提案し始めたとき、その時こそ、釣りが市民権を得るスタートなのだと思います。




2008年09月27日 辻井 豊
2008年09月28日 辻井 豊 文章整形


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