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「利用を前提とした環境保全施策」
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「利用を前提とした環境保全施策」
〜生産的環境保全施策を模索すべきとき〜


 以下の文章は、あるブログへ寄せた、わたくしのコメントに加筆訂正したものです。




 もともと、生物多様性の問題とは、育種の問題として、今から30年以上も前に提起されたものです。それを契機として、最初は企業が、やがては国家が、オリジナルの確保に本腰を入れ始めました。育種の問題は、国家の安全保障上の問題とされたのです。そこに先鞭をつけた企業、国家は、今ではバイオテクノロジーで世界をリードしています。アメリカのことです(アメリカは現在も生物多様性条約を批准していません)。彼らが最初に始めたことは、“種(たね)”を集めることでした。それがやがては、ジーンバンク(遺伝子銀行)となり、現在のバイオテクノロジー産業の隆盛をもたらしたのです。

 どこにでも同じ生き物がいて、それが広範囲に流通していると、病気や何かの異変で、その生物に依存している産業は大打撃を受けます。冷水病や、KHVは、まさにその典型であったわけです。経済原則に基づくならば、産業の保護のためにこそ、生物多様性は維持されるべきですが、今はそうではありません。

 環境保全は、それが生産的なものでないかぎり、費用を飲み込み続けます。そして、それよって生み出される利益が、投入された費用の回収に充てられるようなサイクルを作り上げない限り、そこにあるものは、負の循環でしかありません。環境保全は、ある面では、永遠にわたしたちの負債となる面をも、もっているのです。

 かっての公害対策は、まず何よりも人命の安全確保が第一にあり、そして次に一次産業の保護がありました。公害対策がなされることによって、今の生物多様性の保全と比べれば、ずっとはっきりとした利益が生み出されていたのです。しかし、現在の環境保全施策のいくつかには、そのような生産的側面はありません。生産的側面がはっきりとしたものには、もう手をつけられてきたから次のステップに進んだのだと、そう考えることもできます。


 しかしと、わたしは思います。このままでいいのか。生産的な環境保全施策を模索すべきではないのか。その義務を、環境保全を主張する人たち、支持する人たちは、そろそろ負うべきではないのかと。経済的破綻を問われない分野を作り上げ、そこで「すべき」論をかざしていられるような状況は、いったい何時まで続くのでしょうか。いつまで許されるのでしょうか。

 そのような状況の放置は、開発よる様々な負債を放置し、次世代へと残してしまうことと、いかほどの違いがあるのでしょうか?



 環境保全に関わるコストに、回収の見込みが無いのであれば、それもまた、次世代へ残される負債でしかありません。開発が悪い、誰々が悪い、そうやって他者の非難を続けていても、その負債は消えません。負債が他者に起因するものだからと、他者を非難することで、処理する。環境保全施策として、その負債を、わたし達全てが負うのだから、環境保全施策そのもののコストをどうするかは、考えない。これでは、ただ負債が形を変えただけに過ぎません。

 環境保全施策によってもたらされる効果が、利用不可能なのであれば、負債は永遠に消えないのです。


 費用の投入よって発生した資産が、利益を生まないのであれば、その資産の発生に充てられた費用は、損失として計上されるべきものです。このような損失が増え続けたならば、企業は倒産します。それは国家と言えども同じです。夕張を見れば、それが空論でないことは明白です。

 環境保全施策よって生まれる自然資産が、どのような利益を生むか。それを具体的に示すことなく、費用の投入を「すべき」論で唱え続けるならば、いずれは経済的破綻がまっています。環境保全が、社会的正義とされ、ただ盲目に信奉されている限り。


 自然の利用(消費)によって発生する利益は、自然の利用(消費)がなされる現場で発生するとは限りません。途上国で紛争の原因となるような天然資源、そこまで考えなくとも、釣り。むしろ多くの自然の利用(消費)は、その現場ではなく、離れた場所で利益を生み出しているのではないのでしょうか。そうであるのならば、自然の利用(消費)による費用負担を、利益の発生している現場に設定することで、それを環境保全や、教育、啓発活動に還流させる、それぞれのプロフェッショナルに還流させる。そうすることで、部分的に見れば非生産的な環境保全施策に、全体として生産性を持たせ、正方向の循環を発生させることを、考えるべきであると、わたしは思います。

 それこそまさに、利用を前提とした環境保全施策なのです。


*1.以下2007年03月29日加筆

 社会的なコストの増大は、すぐそこにいる生活弱者にも及びます。経済活動によって、途上国へも。環境保全に関わるコストは、環境保全を唱える本人達だけではなく、他者へも及ぶのです。未来利益が姿を現す、その日まで。環境保全は負債をも生み出している。その意識が、今、あまりにも低いように見えます。

(以上、04:00加筆)


 環境保全施策、特に生物多様性の保全によって、どのような利益が生まれるのか。莫大な利益、ちょっとした利益、ゼロ、マイナス。それがわからないからと言って、保全せずと結論すべきではない。本来、そう提唱されてきたはずです。

 ところが、今、どうか。利益がある、すなわち価値があると盲目的に信じられてはいないか。そうであるならば、コストと利益のバランスを考えることなど、最初から否定していることになります。

 未来利益を唱えて通信機器への投資を募った経営者は逮捕されました。唱えた利益は幻であり、それ故、投資を募った行為は詐欺だと断罪されました。

 環境の価値は、簡単には判断できません。ですから、見誤ったとしても、逮捕されることはまずありません。しかし、責任を問われないからと言って、無制限に価値を見出すことが許されたわけではありません。

 環境保全によって生まれる利益。それが、莫大な利益なのか、ちょっとした利益なのか、あるいはゼロなのか、それともマイナスなのか。そのどれでもあり得る。にも関わらず、全ては価値ありとして、コストと利益のバランスを考えることを放棄する風潮が、今、ないのか。それを、わたしは、問います

(以上、22:15加筆)




2007年03月28日 辻井 豊
2007年03月29日加筆 辻井 豊


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