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「「釣道具年代記」の紹介」
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「釣道具年代記」の紹介 その1


「釣道具年代記」(釣具と共に)常見保彦
昭和59年2月10日印刷 昭和59年2月15日発行 釣具界

 著者の自伝です。業界紙「釣具界」に連載されました。連載当時の題名は、「釣具と共に」です。戦前、父親の急逝によって、幼くして勤めることになった釣具店を出発点とし、大陸への出征、復員から混乱期の時代を経て高度経済成長期の1970年代まで、日本の釣り業界の歴史が綴られています。以下のwebページの真ん中ぐらいに常見氏の紹介があります。

「エルこうとうバックナンバー」
http://www.city.koto.tokyo.jp/top/top-page/kutyo/el-koto-bn.html
***上記ページから引用***
(前略)
〜常見さんは大正二年生れ、釣具卸商の「潟cネミ」を創業、東京釣具用品協同組合、日釣振などを設立、わが国の釣業界をリードしてきた人です。また、戦後いち早くアメリカに渡りスポーツフィッシングにも着目し、ルアーやフライの普及でも中心的な役割を果したほか、国際つり博の前身たる東京国際フィッシングショーの生みの親でもあり、釣りの黄門様≠ニ呼ばれるほどの人物なのです。〜
(後略)
***以上引用***

***「釣道具年代記」著者略歴より引用***
 大正2年5月[本文中では大正2年3月13日]埼玉県越谷生。大正15年亀山デスク商会[本文中では亀山テグス商会]を振り出しに釣具業界一筋に58年間に及ぶ。昭和18年不二屋常見商店を設立。現[出版当時]株式会社ツネミ取締役社長。その間、東京釣具協同組合理事長(10年2期)。財団法人日本釣振興会専務理事。社団法人日本の水をきれいにする会理事[釣業界団体の役員あるいは役員経験者は、この団体の役員になる場合もありました。その逆もあります]、全日本釣具卸組合理事。昭和58年の秋、勲5等旭日双光章授賞。
***以上引用(カッコ[]内はわたしの補足)***


 この「釣道具年代記」より、いくつかの部分を抜粋、もしくは要約して以下に記します。




「釣道具年代記」の紹介 その2


「釣道具に課税されていた物品税の撤廃」
***以下引用***
P.127
〜釣具が生産者の手から出荷されるとき、どんな物品にたいしてでも、荷出し単価の3割が物品税としてかけられるというものであった。〜
P.129
〜昭和30年11月8日、上野公園梅川亭に於て、有志協議の結果、「全国釣竿釣用品物品税撤廃期成同盟」というのが誕生した。〜
P.130
〜昭和37年3月31日付官報に「4月1日より第2種戉類(44号)の釣竿他四品目は免税とする」と布告されたのである。〜
***以上引用***
 昭和30年代当時、釣具の多くは、まだ家内制手工業のような状態でした。物品税の申告と納付は手間がかかり、それが釣具の生産を圧迫しているような状態だったそうです。そこで、業界はこの物品税の撤廃を求めて運動し、それが7年の歳月を経て達成されたのです。


「有名メーカー(当時)が導入しようとした専売特約店制度による混乱」
***以下引用***
P.147
〜当時のオリムピック釣具がオリンムピック製品専売特約店制度を打ち出し、51社の特約店の問屋に大波紋を投じた事件があった。〜
P.148-149
〜競合他社製品を扱わぬ専売の道を選べ、と迫るメーカー側と、各社どこの品でも取扱いたいという、特約店のうち13社の強硬組みとの談合は、その後再三繰り返された。(しかし、双方主張を譲らず、丁度サンケイ会館で見本市が催されていた時、ある近くのホテルで最後の会談となった。そして、共に不利の生じることが解っていながら、遂に決裂。袂を分かつ結果となってしまったのである。
 その13社というのは、次の通りである。佐野商店(北海道)、栗山清次郎商店(新潟)、亀山テグス商会、荒井商店、常見商店(以上東京)、池永由次郎商店、池永人造テグス(以上沼津)、大藤商店、中央漁具、森本久夫商店、三輪商店、松浦テグス商会(以上大阪)、高宮諦商店(九州)―以上の釣具卸商であった。
***以上引用***
 この騒動は、昭和38年の初冬頃から始まります。


「江戸前のハゼを守る会」
***以下引用***
P.174-175
〜檜山先生や都釣連幹部の方々、それに釣船組合などが中心となって、〜
〜昭和41年5月27日、東京中日新聞社の会議室において「江戸前のハゼを守る会」の結成式をあげた。加盟団体は次の通りである。
 日本釣魚連盟(佐藤観次郎会長)、東京都釣魚連合会(伊藤幸三郎会長)、全日本磯釣連盟(小島豊三会長)、釣り横綱会(中村武一会長)、日本渓魚会(森暁会長)、日本友釣同好会(山県為三会長)、日本へら鮒釣研究会(小林健二郎会長)、つり出版記者クラブ(高崎武雄会長)、東京釣具協同組合(常見保彦理事長)、東京釣船組合連合会(中村亀太郎会長)、全日本学生釣魚連盟、関東餌虫組合(堀内一雄組合長)、―以上(順不同)の各団体であった。
P.179
〜江戸前のハゼを守る百万人の署名運動は、わが東京釣具協同組合が事務局を受け持った。11団体の会員それぞれが街頭に立ったり、或いは釣具店の店頭で署名を求め、昭和48年3月にそれを回収した。目標には達しなかったが、六十数万人は、短期間にしては上出来の成果といえよう。〜
***以上引用***
 「江戸前のハゼを守る会」は、この記事の連載当時、「江戸前のハゼと水を守る会」となっていて、都釣連、横綱会、東京釣具協同組合の3団体になっています。檜山博士を中心に活動を続けています。檜山博士は、ハゼ博士で有名な方です。会の結成当時は、東大の教授です。この会などによる運動の成果は大きく、当時の美濃部知事と檜山博士の親交もあって、埋め立ての見直しなど種々の成果を上げました。


「1970年代に盛んになったスーパーの釣具売り場開設」
***以下引用***
P.193
〜大阪の小売商組合が一部業者のスーパー進出に抗議し、メーカーや卸業者に決議文をつきるけるいうことも起きていた。〜
***以上引用***
 スーパーへの進出は、1960年代の終わりごろから問題になっていたようです。




「釣道具年代記」の紹介 その3


「清風会のルアー釣り研修会」
***以下要約***
P.198-199(要約)
 「清風会」は、業者間の釣りとゴルフを通じての親睦会です。当時、釣業界には強いゴルフアレルギーがあったそうです。この会が、昭和47年9月に、芦ノ湖での「ルアー釣研修会」を開いています。ブラックバスが釣れ、連れたバスは塩焼きにして食べたそうです。
***以上要約***
 当時の釣業界は、ルアーフィシングの普及を目指しますが、一般のみならず、業者にも十分に知られていませんでした。しかし、普及活動のかいあって、爆発的な流行が始まると、並行輸入してアフターサービスもない製品を売りつける業者が現れます(当時の商習慣とは相容れないものでした)。常見氏は、これらの業者を、それまで宣伝への投資を苦労してきた業者と区別し、かなりの苦言を言っています。


「初のアメリカ旅行の話 その1」
***以下要約***
P.206(要約)
 アメリカの釣業界、釣行政、見本市「アフタマショー」等の見学の為、常見氏、初の渡米。
***以上要約***

「初のアメリカ旅行の話 その2 米釣振を訪問したときの笑い話」
***以下引用***
P.219-220
〜これは笑い話だが、大型のゲームフィッシュで、小魚等に対する食害問題などが起きないような魚が、もしいたら教えてくれと質問してみた。先方は私の問いにちょっと微笑していたが「それなら既に日本にいるではないか」という。といわれても、こちらは、すぐに心当たりが出ない。すると「日本には鯉がいるではないか」これにはみんな呵々大笑となった。灯台もと暗しとはこのことをいうのだろう。〜
***以上引用***

「初のアメリカ旅行の話 その3 アメリカのライセンス制度」
***以下引用***
P.222
〜アメリカの釣りライセンス制度は、1818年頃、まず、ニューヨーク付近ではじまったのが起源だそうである。それが次第に各州内水面に広まって、アメリカ全土で完全に実施されるようになったのは、1930年だという。あまり遠い昔のことではないのである。結果的にみれば、それがよい制度として、多くの釣り人に理解、支持されているのだが、それに至るまでの過程は、各州それぞれの永い年月をかけたところの、秘められた苦労があったのだろう。〜
***以上引用***
 常見氏だけでなく、当時の釣業界は、アメリカの釣事情に強い関心を抱いていました。とくにライセンス制度への関心は強かったようです。汚染やゴミ問題、魚食魚の問題など、氏の初のアメリカ旅行当時には、現在ある問題の全てがすでに出揃っていました。


「日釣振の話 過去12年間の主な実施事業」
***以下引用***
P.249-250
〜過ぎ去った日釣振12年間の歳月の間の、主な実施事業を拾ってみたい。
1.釣り人人口調査
2.米国のスポーツフィッシング・インスチチュートの代表2名を招待して本国釣事情講演会の開催。(東京、大阪)
3.行政に釣りの窓口設置を求める請願に関し、衆参両院議員、及び都道府県知事に対するアンケート調査の実施。
4.釣り人課の設置を求める請願に関しての、全国的署名運動の実施。140万余の署名獲得。
5.釣り人課の設置を求める請願運動の一環として、国会に対する釣竿デモの実施。約500名参加。請願書と140万名の署名簿を衆参両院に提出。その結果、昭和57年4月、水産庁に「遊漁班」誕生。
6.青少年に対する健全な釣り普及を念願した映画「ひと夏の日々」の製作。
7.ゴミ収集用ビニール袋の製作。釣り場クリーン作戦の尖兵として、例年全国より好評を博している。
***以上引用***
 1970年代の空気を感じさせる内容です。


「オオクチバス、ブラウントラウトの移入の話」
***以下要約***
P.257-259(要約)
 ツネミ、新東亜交易によって、ラージマウスの稚魚5000尾を、ペンシルバニアから空輸。昭和47年6月、7月の2回に分けて実施。芦ノ湖漁協の賛同を経て芦ノ湖への放流。
 本栖湖のブラウントラウトは、ツネミ、新東亜グループがフランスより発眼卵を取り寄せ、富士の養鱒場の好意ある協力で孵化したものが源となっている。
***以上要約***
 上記の芦ノ湖への放流については、「ブラックバス移植史」金子春陽・若林務に、詳しく記述されています。業界やルアー愛好家団体などの声を受けて行われました。



以上、終わり。


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