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「抜け出さなければならないもの〜振り返らなければならないもの:誰が人の心を踏みにじったのか」
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「抜け出さなければならないもの〜振り返らなければならないもの:誰が人の心を踏みにじったのか」


 1984年、琵琶湖でのブラックバスの駆除が始まります。この当時、琵琶湖における漁業者の、外来魚に対する認識は、漁業操業上の支障と言う程度でした。このことは、昭和59年〜60年(1984年〜1985年)にわたってオオクチバスを調査し、平成元年(1989年)に発行された滋賀県水産試験場研究報告第40号に記されています。

 琵琶湖の漁業は、1970年代には既に転換期にあったと思われます。これまでの漁法では十分な漁獲が得られず、そのために1975年に漁業調整規則が改正されたのです。1980年代に入ると、エリなどで外来魚の漁獲が増え始めます。県は、大学などの研究機関に委託し、栄養があり、食用になると公報します。新聞記事にもなりました。テレビ番組でも報道されています。しかし、それまでのイメージもあってか、食用としての市場価値は低いままでした。この低い市場価値のもとでは、よほど大量に漁獲され、しかも、それが安定していなければ、市場流通を成立させることは困難でした。しかし、市場価値を高めるための努力は行われており、活魚として芦ノ湖などに販売されていました。ですが、当時、ブラックバスの廃棄処分率は70%にもなったそうです。ブルーギルは魚網から外す作業に手間がかかり、エリに侵入したブラックバスは、同じエリに入ったモロコなどを食害していました。しかも売れない。それらゆえに、漁業操業上の支障であったわけです。市場価値が高まらないまま、外来魚の混獲率は増えてゆきます。売れない魚が増えてゆくのです。ですから、1984年、ブラックバスの大増殖が始まった頃に、琵琶湖でのブラックバスの駆除が始まったのは、止むを得ないことでした。

 この琵琶湖での駆除に対して、バス釣り人は一斉に反発します。この頃、県は、釣ったバス・ギルの持ち帰りを呼びかけてはいましたが、現在のような強制ではありませんでした。漁業者にしてみれば、操業の支障を取り除く当たり前の行為に対して、バス釣り人は反発したのです。
 そして、1990年代のバスブームがやってきます。琵琶湖で大規模なトーナメントが行われ、湖はバス釣り人で溢れかえるようになります。各地で、釣り人と地元住民との間でトラブルが頻発し、新聞などのメディアで取り上げられるようになります。
 1994年に京都新聞から発行された琵琶湖の釣り場ガイドは、琵琶湖全体を何回にも分けて空撮し、その写真を使って釣り場の案内をするものでした。文章はごく少なく、大判の写真で、琵琶湖の姿が印象に残るガイドブックです。しかし、そのガイドブックの殆んどのページには、釣り人と地元とのトラブルが発生しており、マナーには気をつけるようにと、一文が添えてあるのです。なかにはゴミ(ルアーのパッケージ)の問題から、写真は載せてあっても、どこがポイントかは書かれていない、そしてそのポイントを掲載していな理由のみが書かれているページもありました。

 平成9年(1997年)を境に、バスブームは下降線をたどり始めます。バス害魚論が盛んに喧伝され始め、生物多様性の御旗が登場します。それに対して、バス釣り人と業界は、バスの有害性を科学的に立証することを要求します。しかし、これは、琵琶湖においては不可能とも言えることでした。開発によって深く傷ついていたとはいえ、琵琶湖はあまりにも多様で、そして広大でした。ですが、その琵琶湖から、自然拡散や、放流への混入による拡散などで、ブラックバスとブルーギルは各地に散ってゆきます。新たに侵入した水域の中には、琵琶湖ほどの環境収容力がなく、しかし希少種が存在する水域もありました。果たして、琵琶湖での駆除は、非合理的なことなのでしょうか。もちろん、駆除方法の妥当性には、大きな疑問がありますが。

 琵琶湖でのブラックバスについて、いっそのこと、積極的に利用すればよいとの声が、いまだに聞こえてきます。各地でも、地元にお金を落とせばいいではないかとの発言があります。琵琶湖の開発の歴史、そしてそれが、都市部による搾取の歴史であることを考えた時、わたしは、これらの声に反発を感じます。

 誰が人の心を踏みにじったのか、それをお互いに確認し、正面から向かい合わなければなりません。お互いに過去を振り返り、それを確認し合う。その作業なしに、現在のこの泥沼からは抜け出ることは不可能のように感じます。

 自分の痛みとともに、まず相手の痛みを知る。


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