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「琵琶湖とその周辺で暮らす人々がたどってきた歴史」
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「琵琶湖とその周辺で暮らす人々がたどってきた歴史」


 琵琶湖とその周辺は、京都に近いため、開発の歴史も古く、また戦略上の要衝であったことが、そこに住む人々を長く翻弄してきた歴史があります。この苦難の歴史は、わたし自身も、ついこの間まで(先週)知りませんでした。琵琶湖周辺の開発の歴史は、記録に残るもとしては、平城京、平安京の時代にまで遡ります。都市造成のための森林伐採が、まず瀬田川の集水域(琵琶湖自身を除く)で始まります。その後も寺院建設等のため、森林の伐採地域はさらに拡大します。琵琶湖の周囲の山地は、もともと侵食を受けやすい地質でした。大規模な森林伐採は、この傾向にさらに拍車をかけます。流れ込む土砂が増えた河川は天井川となり、下流部では洪水に晒される危険が増大します。また、瀬田川を徒歩で渡ることが戦略上重要であったため、瀬田川の浚渫が長く禁止されたこともありました。それが湖水の氾濫を増幅します。その反面、現在の長浜市から草津市に至る地域を流れる河川の扇状地では、川は伏流水となっているため、常に水不足に悩ませされていました。1868年、淀川で大規模な河川氾濫が起きた為、明治政府が、信楽、木津、名張、田上山への植栽事業を始めます。地元ではなく、下流域で発生した事態にようやく対策に乗り出したのです。この明治期になると、殖産興業政策のために、近代的な潅漑施設の整備が始まります。湖水を利用する逆水潅漑もこの頃から始まります。瀬田川洗い堰の建設が湖水の安定化をもたらし、湖岸の干拓が始まります。企業の進出や、内湖の埋め立ても始まり、その傾向は昭和期に入ってさらに加速します。戦後になってからは、干拓や、圃場整備と農業用水の整備がさらに進みます。内湖の干拓は、食料の安定供給が目的でした。これらの開発は、地元の水不足と、農作業の苦役を徐々に解消して行きました。高度経済成長期に入ると、工場立地と宅地開発が本格化します。工業化、宅地化の波が、琵琶湖の水質に強く影響するようになります。そして、琵琶湖総合開発。これは京阪神地区の工業用水を確保することが目的でした。琵琶工総合開発は、湖水の低下をもたらします。その対策として、漁港や水路、河川が改修されました。水路や小河川の河口には、水門が建設されました。これらの開発は、琵琶湖での漁業に強い影響を与えました。アユなどの魚類が河川に遡上しなくなりました。1970年代には、河川での種苗用アユの採取が激減し、やむなく、湖中で採取し、蓄養した仕立アユが、放流種苗として販売されるようになります。1975年の漁業調整規則の改正は、それを反映したものだったのです。そしてさらに、レジャーブームを反映し、周辺の丘陵地帯ではゴルフ場の建設も盛んになってゆきます。
 よく、近代における治水、利水政策が、日本の自然を損なってきたと言われますが、琵琶湖とその周辺には、それ以上に古い歴史があったわけです。そして、それは地理的な要因による、都市部からの搾取の色が濃かったのです。このような歴史は、琵琶湖だけでなく、ほの地方にもあるのかもしれません。

 わたし達は、考えてみる必要があると思います。釣りは、どうだったか、そのことを。


余談:
 地学関連書籍も何冊かあたってみました。それによると、古琵琶湖が出現してから、それを含む地域が海没したことはありませんでした。大陸と離れたり繋がったりを繰り返し、現在は瀬戸内海や日本海である地域に存在した河川や湖沼を経由して、琵琶湖に多くの魚類がやってきました。中には、古琵琶湖で進化し、大陸に伝播した種もあったのかもしれません。いつかの雑誌、バサーに取り上げられていた、ゲンゴロウブナや、ハスの化石も見つかっています。ゲンゴロウブナの化石は、100万年〜40万年前の地層から見つかっています。琵琶湖に現存する種のうち、海から適応した種はセタシジミだけだそうです。これは古大阪湾・京都湾からの侵入であると考えられています。升先生、多分、雑誌掲載後に抗議の手紙でも来てたりして。。。

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